断捨離 2019.4.24
断捨離 (だんしゃり) 2019.4.24
不要な物を減らして、生活に調和をもたらす思想であり、山下英子の著書において発表された。(ウィキペディア)
当店の本店・工場の建て替えに伴い、私の私物、家族や仕事関連の品物を、選別して大幅な断捨離をする事になったのです。
この本店・工場は住居になり、工場は近くの当店倉庫の一部を改装して、工房として生まれ変わります。
ここでは、私の私物の断捨離についてお話します。
長い歳月を経て、それらは、経年変化を起こしていたり、埃にまみれていたりです。
先ず、取り掛かったのが、25歳から数十年間、受けていた英語の個人レッスンに関するノート、テキスト、参考者、辞書、録音カセットテープ。
何とか、話せる様になりたいという一心で、夢中になっていた痕跡がノートに詰まっていて、淵が黄ばんだ
ノートをめくると当時の自分に戻ります。
ビニールカバーのノート、金属リングで束ねられているノート、革張りのノート、など様々で年代毎に、ノートの嗜好が違っていて、心境の変化が解るのです。
皮張りは、この部分がべたべたになっていて、期待外れでした。
数冊の分厚い英語関係の辞書、小説の数々も思い切って断捨離。
現代になり、ネット検索が出来たり、大型辞書が数冊も一機の電子辞書に収まっていますからね。
私は小説に限らず、書籍に書き込みを入れる癖があり、古本屋は買いとってくれないのです。
古紙回収業者はビニールカバー付きや、革張りや金属リング付きのノートは嫌がるのですが、
なんとか回収してもらっています。
50kg以上はお金をくれるそうですが、こちらとしては、処分して頂けるだけでも助かるので、計量は
無しです。
次の断捨離は、これまた、ながーくやってきた、書道関係。
大別して、手本関係、作品、未使用の半紙、半切紙、墨、そして、筆、雅印、硯などですが、
手本は、歴史上の有名書家の作品(主に中国)の拓本類、師匠の自筆手本(折帳)ですが、
流石にこれは処分できません、保存です。
未使用の紙類、墨、そして、雅印、筆と、大小数々の硯も保存です。
この硯は石ですから、まとまると重い。
大量の墨が擦れる、墨すり機械も保存です。
大量に墨を使う場合、墨液を使うことが多いのですが、墨液は筆が傷むし、墨色が悪いので、
使っていません。
作品関係は、今となっては、昔の作品の未熟さが目立ち大量に処分。
しかし、甥や姪の幼い時に書いた書は保存です。
今、見て、それらの素晴らしさに愕然としています。
幼い子供達の、まだ、書に対して、筆法に対して教えが入る前の生の書の表現の素晴らしさを
目にして、教えられる事で失う感性があると、思い知らされます。
次の断捨離は、これまた、ながーくやってきた、写真関係。
フイルム時代のものばかりです。
ネガフィルム、ポジフィルム、多くのプリントされたショット。
仕事関係、家族関係のもの、とりわけ、今は30~40代になる甥や姪の幼い頃や、亡くなった祖母、父などのショットは処分出来ません。
若き友人達、今は亡き友人達の元気な姿が残っていて、現代に蘇ります。
今は殆ど、帰国している外国人の友人達と楽しんだ、バーべキューのショット。
私がライフワークにしていた、工業地帯の写真。
思い出が満載で、選別に苦慮しています。
後、残りはカメラ機材の一部が残っています。
手作りしたレフ板、アンブレラもあり、思いいれが強いです。
フイルム時代のカメラは全部、乾燥庫で保存しています。
デジタルカメラの便利さや性能を知ってしまって、もうフイルムカメラは使わないと
思うのですが、お小遣いを貯めて買った1台1台のボディー、1本1本のレンズ、そして、
数々のアクセサリー部品。
それらには私の情熱が含まれていて処分の決心がつきません。
当時、新しいカメラを購入してから、暫くの間は枕元に置いて寝たほど嬉しかった。
昨今のデジカメは、3年もすると型落ちになる程、性能の進化が著しくて、最早、嗜好品から
消耗品になってしまって、この型落ちしたカメラをフイルムカメラの様に、手放さないでおこうとは
思えなくなっています。
友人が世の中の進歩は、もう、程ほどで良いと言っていたのを思い出しました。
凡そ、40年前に描いた私の絵画が出てきました。
画用紙にクレパスで色を重ねて、上層のクレパスを削り、下の色を出す画法です。
タイトルは creature. (クリーチャー、神の創造物の生き物。神が私を創造し、私が想像した生き物)
断捨離はまだ残っているのです。